Thu

03

Apr

2014

放射能と共に生きて:ベラルーシ出身、アメリカ市民のお母さんが語る祖国ベラルーシの少女時代

「子どもたちを放射能から守る世界ネットワーク」のアメリカ在住のメンバーが、ベラルーシ出身のお母さんに事故後のベラルーシでの生活についてiインタビューを行いました。二児の母となり、またアメリカ市民となったお母さんの体験談と福島の人々に関する率直なメッセージです。

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「チェルノブイリと福島をつなぐお尋ねポスト」はこちら

ベラルーシとウクライナの地図。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/genpatsu/ukraine1.htmlより転載。チェルノブイリ原発はウクライナに位置する。
ベラルーシとウクライナの地図。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/genpatsu/ukraine1.htmlより転載。チェルノブイリ原発はウクライナに位置する。

放射能の恐怖の中での生活はどのようなものでしたか?政府は市民を守ってくれましたか?

 

チェルノブイリ原発事故は、1986年4月26日に発生しました。チェルノブイリで放出された放射性物質の70%がベラルーシに降り注ぎ、ほとんどの土地と2500万人の住民に影響を及ぼしました。ベラルーシ国立科学アカデミーは、チェルノブイリ原発事故をきっかけに、事故現場付近の地域の住民、27万人が癌を発症し、そのうち9万3000人は、致命的なものとなるだろうと推定しました。放射能被害は、28年経った今でも続いています。

 

私達の政府は真実を伝えませんでした。

 

事故が起きたとき、私は2歳でした。ベラルーシ政府は、情報を秘密にし、事態は深刻ではないと伝えました。

高齢者は、避難することを拒否しその地域に留まりました。放射能は彼らの体には影響を及ぼさなかったようです。ですが、子供達には影響しました。私のホームタウンには、チェルノブイリの被害者を追悼する記念館がありました。当初その記念館は一般に公開されていましたが、その後は閉館され、いくつかの学校の子供達が学習育目的の為に訪れるためだけのものになりました。

私はそのうちの一人でした。私はそこで、頭が2つある子供など、出生異常で産まれてきた子供達の写真を見ました。また、突然変異し動物達の写真がたくさん展示されていました。

毎年、私の学校にお医者様が来て、私達の首を診察しました。たくさんの子供達の首の腺が腫れていたのを覚えています。私達のクラス20人の内、3〜4人が大き過ぎるリンパ腺を持っていました。私達は皆、ミネラルやヨウ素剤による治療を受けました。

 

政府は医療費と学費を支払っていました。私は6年生のとき、チェルノブイリのためのイベントがあったのを覚えています。私達は黙祷を捧げました。何人かは分かりませんが、たくさんの人々が事故後に亡くなりました。私も私の家族も、自分たちの国がどれだけ汚染されているかしりませんでした。政府は、事故は重要でないかのように見せかけました。彼らは何も気にかけず、たいして何もしませんでした。私達の国では、命は意味のないもののようでした。 何の保証もありませんでした。殆どの人が、あまり気にしていませんでした。

 

ドイツからの援助

 

政府は子供達の保養プログラムを提供しました。しかし、それは少数の子供達しか参加できませんでした。そのかわり、ドイツの農家の方々が、ボランティアで毎年数ヶ月間ベラルーシの子供達を受入れてくださり、それはその後何年も続き、私達への大きな助けとなりました。

 

キノコ類と魚は食べるな

 

私達は、キノコ類と、湖の魚は食べないように言われました。私達は魚が通常よりも大きくなっていて、キノコも巨大になっていることに気づいていました。

放射能は、私達が食べていたものに影響していたと思います。私達は魚を食べるのをやめましたが、キノコ類は私達の日常の食事だった為、簡単に諦められるものではありませんでした。

私達は貧しかったので、十分な食べ物がありませんでした。私達は警告にもかかわらずそれらを食べ続けました。私の家族も含め、人々はチェルノブイリのことを話すのを避け、全て何事もなかったように振る舞いました。私の家族は実際、大したことではなかったと信じていたのだと思います。私も、本当に何が起きているかどうかすら考えることしませんでした。政府は何一つ提供せず、何も気にしませんでした。彼らは、大したことではない、大したことではないと言い続けていました。彼らは私達にパニックを起こしてほしくなかったのだと思います。

 

 

もしあの事故が他の国で起きていたら、その国の政府は住人が避難するのを助けたと思います。 でも、私達の政府はそうしなかった。

私はベラルーシから避難しました。

 

私は18歳の時にひとりでアメリカに来ました。私の国に、希望はありませんでした。

アメリカの人々は、私に「あなたの髪の毛どうしたの?」と戸惑いながら聞いてきました。当時、私はあまり髪の毛がありませんでした。ベラルーシの人々はみんな、薄い髪の毛でした。むしろ私は、世界の人々の髪の毛は薄いものと思っていました。髪の毛がたくさん生えていることが普通だということは知りませんでした。そして、ベラルーシの人々の爪は、とても弱く、もろく、亀裂が入り割れてしまいます。それも私はそういうものなのだと思っていました。時が経ち、私の髪の毛は太く多くなりました。爪も強くなりました。私の家族は、私を訪れアメリカに来るたび、自分たちの健康も全般的に良くなってきていると言っていました。私の母は、ずっと耳鳴り持ちでしたが、少しの間ここに滞在すると、それが止まると言っていました。

 

ベラルーシに戻ってからは、また問題が出始めました。私の国では、50歳になると死について考え始めます。多くのベラルーシの女性たちは、いつも痛みを伴う胸の嚢胞に悩まされていました。それは胸にイバラを抱えているかのようでした。私の家族みんなにあるのです。私の姉は手術をし、片方の胸を取り除きました。

その場所には、茹ですぎた卵のような感覚が残りました。嚢胞は癌を発症する可能性があります。

彼女は手術後、またそれを取り除く為の手術をしました。

 

ベラルーシでは薬、病院、教育の費用は、全て無料です。ですが、政府が運営する病院の状態はひどいものです。床にはゴキブリが這っています。医師達はあまり訓練されておらず、給料もよくありません。

患者は、まともな医療を受ける為には医者にお金を渡す必要があります。そのお金は、医師達にとって重要な収入源となっています。

私の姉の隣にいた女性は、麻酔のための200ドルを持っていませんでした。彼女は、手術後とても具合が悪く、回復までに長い時間がかかりました。

お金がある人々は、 個人クリニックを選びます。より良い治療が受けられるからです。私達は、私達の政府が汚染地帯から避難するのを援助すると思っていました。ですがそうではありませんでした。私のような沢山の若者達は、国から移住しました。彼らが今、健康か病気かどうかは分かりません。

 

ベラルーシにはアメリカよりがん患者が多い?

 

私の健康は、アメリカに来て以来だいぶ良くなりました。ですが、がん患者の割合は、ベラルーシと比べてアメリカはそれほど変わりがないようです。アメリカにもたくさんのがん患者がいます。

 

 私はベラルーシを訪れることはあったとしても、住むことはありません。

 

私は今、アメリカの市民です。そして私の夫も。初めのうちは、ベラルーシの人々が恋しかったですが、関係は時が経つにつれ薄くなりました。私の家族は、永住ビザを持っているので、私達のことをいつでも訪れることができます。私達はチェルノブイリのことは話しません。ベラルーシではそういうものでした。誰もそのことを話しません。子どもが出来たら、真実は知りたくもないし聞きたくもありません。私はベラルーシでどれだけ被爆したか分かりません。私の健康は改善していて、私の子供たちも健康のようです。

 

 いいえ、私はポーランド政府が 事故直後に国民にがヨウ素剤を配布していたことは知りませんでした。

 

私達はソビエト連邦の影響を受けていました。政府にとって私達の命はどうでもいいものでした。例えば、お店に行って、何かを壊してしまって、誰かが怪我をしてしまったとします。アメリカの人々なら集まってきて、「大丈夫ですか?」というでしょう。でもベラルーシでは、「誰がその賠償を支払うんだ?」と言われます。人の命は、どうでもいいのです。今でさえも。

 

 

私は、福島の人たちは似た状況にいると思います。

 

避難や放射能のことを話すのはタブーでした。ベラルーシで、ある人が医者に行った時に、医者は彼女に「大したことない。みんな同じ問題を抱えている」と言いました。医者たちは、放射能の影響については嘘をつきます。

 

福島の子供たちへの私からのメッセージ・・・ 

 

言いたいことをはっきりと言わなくてはいけません、そして他の国の同じ年くらいの子供達とお話ししてください。あなたが抱えている問題に気づいてください。ミネラルやビタミンをたくさんとってください。夏休みなどを使って、安全な場所に出来るだけ長く滞在してください。出来る限り放射能がない場所に滞在してください。日本から出てください。新鮮な空気、海の風を吸ってください。普通の生活がどういうものかを知ってください。私は子供のとき、それを知りませんでした。私は、福島の人々が健康で、国が人々を助けることを願っています。

 

 

若くしてベラルーシを離れるという彼女の勇気ある決断は、その後の状況を良くしました。彼女がベラルーシ出身だということ、チェルノブイリの被害者だということは、見た目では分かりません。彼女がアメリカに来た当時は、彼女の髪の毛は薄かったのかもしれません。彼女には今、黒くて美しいたくさんの髪があります。彼女は確実に幸せです。私達は、お話を聞かせてくださった彼女に感謝するとともに、これからも彼女と彼女の家族が健康で、恵まれた人生を送ることを願っています。

そして私達は、政府は国民のことを助けないという悲しい事実も学びました。そしてそれは福島の現実でもあります。

 

(IWNSCR teamにより、インタビューを読みやすく編集してあります)

 

「チェルノブイリと福島をつなぐお尋ねポスト」では、ベラルーシや日本の専門家が読者の質問に答えています。どうぞ御覧下さい。

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Comments: 1
  • #1

    yuka (Tuesday, 03 November 2015 00:34)

    昨日テレビでイモトという芸人がベラルーシを訪れ紹介していました。
    不思議なことに、チェルノブイリの事には一切触れず、綺麗なイルミネーション
    のところで恋人達がどうのとかそういう内容でした。映像では、人々は普通に暮らしているような
    感じでしたが、現在はベラルーシは放射能の影響はなにもないのでしょうか?